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エスマガの街!阿倍野区のご紹介
阿倍野区の概要
町丁目別人口・世帯数
阿倍野の歴史は、弥生時代に始まったといわれ、「阿倍野」の地名の由来についてはいろいろの説があります。
古代にこの地を領有していた豪族阿倍氏の姓からとする説、「万葉集」の山部赤人(やまべのあかひと)の歌からとする説、 古地名の「東生郡餘戸郷(ひがしなりぐんあまべごう)」の「餘戸(あまべ)」からとする説などがありますが、 豪族「阿倍氏」説が最も有力とされています。 「あべの」の文字については、古来より、「阿倍野」「安倍野」「阿部野」などが使われていましたが、 1943年(昭和18年)4月1日に、大阪市がそれまでの15区制から22区制へ分増区させた際、住吉区が3区(住吉区・東住吉区・阿倍野区)に分区されて、 阿倍野区が誕生したとき、区役所の土地台帳が「阿倍野」の字を用いていたので「阿倍野」の字になりました。
阿倍野の町
天王寺町 (てんのうじちょう) 町名は、町域が昔の巨村であった東成郡天王寺村の一部であったことに由来しますが、 当町は最後まで残存した狭域の天王寺町に属し、四天王寺を包括する地域を占める村として 天王寺村の名が古くから受け継がれていました。 三明町 (さんめいちょう) 町名は、町域が東成郡天王寺村の一部であったころ、小字名に三明・南三明があり、その小字が当町域に当たることに由来します。 また名高い古池の三明池が存在したことも由来します。 松崎町 (まつざきちょう) 町名は、天王寺村当時の字の名である一本松と、小字名の長者ケ崎の「崎」を合成して町名をつけたことに由来します。 美章園 (びしょうえん) 大阪鉄工所社長や大阪商船副社長であった大阪財界の山岡順太郎氏の父山岡美章氏が、大正年間に設立した「美章土地株式会社」が この付近の宅地の開発に努めて、発展の基礎を築きました。 昭和5年に阪和電気鉄道(後に国鉄)が開通して「美章園駅」が設置され交通の利便が与えられ、のち昭和26年2月20日の町名の 改正に当たり、天王寺町と桑津町の一部がこの会社の名をとり、新町名を「美章園1〜3丁目」と名付けられしまた。 旭町 (あさひまち) 町名の由来は、上町台地の崖下に下がる谷筋の旧村道の通称名「あさひ通」に由来し、三和銀行の南側に「旭通」と刻まれた古い石碑が建っています。 この通りの起点が標高17m越す高台にあり、西の低地から眺めると、山の姿そのままで、そこから旭が照り輝いて来るというので こうした名称を生むに至りました。 文の里 (ふみのさと) 阿倍野区役所の所在地を含む東南方一帯の地に「文の里」という町名ができたのは、昭和26年2月20日。 この町名は、南海平野線の駅名「文ノ里」に由来するものです。 その駅名は、付近に桃山・明浄・天王寺・工芸高校など学校が多かったところから、 「文ノ里」と名づけられました。 王子町 (おうじちょう) 王子町という町名は、旧村時代、大字阿部野にあった「王子町前」という字名にゆかりを持つもので、阿倍王子神社に由来していて、 その場所は阿倍王子神社の敷地を含む神社の東方一帯の地点でした。天王寺村時代にも小字名に「王子前」がありました。 阪南町 (はんなんちょう) 町名は、この地域の土地区画整理にあたった大阪市阪南土地区画整理組合の組合名に由来しています。 阪南は大阪市の南部地域を意味し、その区画整理地域の西半分を阪南町と名づけました。 比較的新しく開発された町で道路は他の古い町に比べ、整然としています。 阿倍野筋 (あべのすじ) 町名は、阿倍野街道(熊野街道の一部)に沿う町筋であることと、旧天王寺村時代の大字の阿倍野の中央部を南北に通じる街区であることに由来しますが、 阿倍野そのものの地名起源には諸説があります。 有力なのは孝元天皇の皇子大彦命を祖する阿倍氏という豪族が、この周辺地域に居住したとする説。 共立通 (きょうりつどおり) 町名は、東成郡天王寺村の一部であった昔、小字名に経立(きょうだつ)・中経立・奥経立があり、その小字が当町域に当たることに由来します。 経立を「共立」の文字に改め、「きょうりつ」と読ませた。 丸山通 (まるやまどおり) 町名は、町域に丸山古墳とよばれた古墳が所在したことに由来するとともに、 この町域の道路が早くから通称名として丸山通を名乗っていたことによります。 松虫通 (まつむしどおり) 町名は、謡曲「松虫」で知られる松虫塚が当町域に存在し、道路名の通称となっていたことに由来します。 松虫中学校をはじめ、交差点名・上町線の駅名・バス停名などにも「松虫」の名が使われています。 昭和町 (しょうわちょう) 町名は、この地域の土地区画整理に当たった阪南土地区画整理組合の土地造成が、昭和4年に完成し、 それを記念して年号の昭和を町名としたことに由来します。 地下鉄が開通し駅名にもなりました。 昭和町にはエステート・マガジンの事務所があります。 桃ヶ池町 (ももがいけちょう) 町名は、町域に古くから所在する古池の股(もも)ケ池に由来します。 「股(もも)ケ池」の「股」の字を「桃」の字に変えて名付けられました。 現在は、股ケ池の池の名も桃ケ池に変わっています。 長池町 (ながいけちょう) 町名は「長池」の池の名から名付けられたもので、長池はかなりの部分が埋め立てられ道路・花壇・運動場が作られて、 現在池は南北の二つに分かれています。 西田辺町 (にしたなべちょう) 町名は、奈良時代の当地を田辺史(ふひと)の一族が管掌して、田辺郷と称されていたことに由来します。 晴明通 (せいめいどおり) 町名は、昔の天王寺村を市街地として開発したときからの当町に付けられた通称で、安倍晴明を祀る安倍晴明神社が、 当町と隣接する現在の阿倍野元町に所在していることに由来します。 安倍晴明の伝説は広い範囲において受け継がれており、晴明公に由来して名付けられました。 相生通 (あいおいどおり) この相生という地名は、天神の森方面の下町から東に延びる町並が、東から西に延びる町並とその中間の地帯、 すなわち今の相生通1丁目8・9街区の境目の坂のあたりで相会することとなったので、その意味を取り入れて名付けたものですが、 この地名は昭和4年8月20日、この方面の町名改正にあたり正式の町名として採用されました。 橋本町 (はしもとちょう) 町名は、明治初年頃、与力であった橋本尚四郎・久五郎兄弟がこの地に移り住み、聖天坂の道路開発など付近−帯の開発に貢献したのを記念して、 名付けられました。 帝塚山 (てづかやま) ・・・地域は住吉区にもまたがる 町名は、この町の南、住吉区帝塚山西3丁目にある"帝塚山古墳"の名に負うものです。 この古墳は古墳時代(3〜7世紀)に造られた前方後円式の古墳で、周濠の跡もあり、その平面積3379平方メートルに及ぶ。 昔は墳丘上、一面に芝草が生え、だれでも自由に遊歩することができた景勝地でしたが、現在は周囲に柵が設けられたのと一般の人家が 建並んだので、勝手に柵内に立ち入ることはもちろん、周辺から墳丘の姿をみることさえ困難となりました。 播磨町 (はりまちょう) 町名は、王子町4丁目(旧王子町3丁目)に所在する播磨塚に由来したもの。 なお、播磨塚は「摂陽群談」に「昔、播磨守に侍りける人の古墳なりと伝ふれども其証不祥」とあり、 また播州の赤松貞範がこの地にて戦没した部下を埋め追悼した遺跡とも伝えられています。 万代 (ばんだい) ・・・1丁目のみ・2-3丁目は住吉区 町名は、町の南にある万代池という古池の名に因むものです。この池は昔、農業用に造られたもので、面積5万3平方メートルにおよぶ大池で、 現在は万代池公園の主体となっていますが、池の中央に緑で包まれた小島を浮かべ、池の畔には老樹が繁って水面に影を落とすなど、美観を呈しています。 北畠 (きたばたけ) 町名は、王子町の町域内の北畠公園に所在する大名塚を、江戸時代の国学者並川誠所が北畠顕家の墳墓と比定したことにより、 当地周辺を顕家戦没ゆかりの地として顕彰し、この地に北畠の名を冠したことに由来します。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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